1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め入りました。
その二日後、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。
日本はインドシナ半島に軍を進め、他国とつながりを強めていきますが、次第に戦況が厳しくなり、1945年8月14日、無条件降伏に日本が正式に同意し、第二次世界大戦が終結しました。
南北アメリカ大陸を除くほとんどの地域を戦場とする、史上最大の戦争でした。
戦争によって、美容業界は退行を余儀なくされ、人々は、節約や簡素を第一とした生活を送りました。
今回は戦争終結後の日本の脱毛を見ていきます。
日本が敗戦を迎えた1945年、アメリカでは、ブレンド脱毛法が誕生します。
今までに登場した電気分解脱毛法と高周波脱毛法を組み合わせた、いわば良いとこ取りの脱毛方法です。
3年後には『ブレンド脱毛法』として特許登録が認められました。
この時点では、アメリカの脱毛文化は、戦争で停滞していた日本より一歩も二歩も先を行っていたのです。
一方、敗戦を迎えた日本では、再び経済が動き出します。
国産品の西洋レザーが生産されるようになると、日本の和カミソリは次第に姿を消していき、東京を中心に安全カミソリと呼ばれる西洋レザーの輸入と生産が発展していきました。
カミソリが普及すると、男性、女性共に手軽にカミソリを使えるようになり、セルフケアとしてカミソリや毛抜きで顔のムダ毛を処理する習慣も復活しました。
1953年の読売新聞では、『男性の朝の髭剃りはエチケット』の記述があり、髭を剃ることはサラリーマンのたしなみとして定着していったことが分かります。
この頃は髪型も洋風化していき、一般的には七分三分わけの洋髪スタイルがメジャーでした。
昭和25年に出版された女性向けの美容書である『美容と作法』では、“顔の産毛がある人は化粧したとしてもあか抜けない”とあり、カミソリでムダ毛を剃る練習法が紹介されています。
戦争を超えても、日本人の顔のムダ毛文化はしっかりと残っていたようです。
つくづく、日本人は、『顔』の美しさを大切にする文化だということが分かりますよね。
1955年、映画『ローマの休日』が大ヒットします。
すると、主役のオードリーヘップバーンをお手本にした、目元と口元を強調するメイクが流行しました。
日本では軽視されていた、目元の美しさに初めて焦点が集まったのです。
戦前は頼りなげな雰囲気だったメイクも、角のある太い眉と、アイラインでキリっと釣り上げた目元メイクが流行し、復興期の日本の力強さを読み取ることができます。
昭和20年以降、日本にアメリカ軍が多く駐留したことから、アメリカ文化が一気に流入し、日本人の衣服は着物から洋装に変わりました。
スカートも庶民の女性が気軽に履けるほどにまで浸透していました。
今まで見えなかった素足が露出する為、カミソリや毛抜きで足のムダ毛の処理する人々が徐々に増えていきます。
日本の急激な洋装化によって、下着も変わりました。
日本にショーツが普及し始めたのです。
昭和の初めごろまでは、着物を着るのが当たり前だった日本人。
それまで、女性は『湯文字』と呼ばれる腰に巻く布が下着替わりでした。
そうです。昔は今のショーツのような下着はなかったんです。
豊臣秀吉がいた時代、南蛮貿易でショーツが初めて日本にもたらされたという記録はあるそうですが、着物文化には合わず、普及はしなかったようです。
トイレの時に不便だったり、着物に下着の線が出てしまうのが嫌だったことが理由のよう。
しかし、それ以前の平安時代などは、そもそも着物の下に肌着を付けるという概念自体がなく、女性は基本的には下着なしで過ごしていました。
下着が無いとなんだか心地も悪そうですが、履かないのが当たり前の時代だったので、特に不快は感じていなかったようです。
日本人がショーツを履くようになった歴史は、意外にもたった100年ほどなんです。
こんな時代までなかったなんて驚きますよね。
ショーツの登場によって、デリケートゾーンの毛を処理する女性が一部現われました。
カミソリで剃ったり、ハサミでカットしてセルフケアをしていたそうです。
ショーツを履くようになると、今まで通気性があった部分が蒸れて不衛生に感じるようになったのが原因でした。
ですが、下着はデリケートな部分でもあり、人に話したり共有したりといったことも少なかった為、デリケートゾーンを自己処理するのはまだまだ少数派。
大半の女性は、自然のままでした。
1960年以降になると、女性が脇毛の処理を始めました。
日本における脱毛の中で、脇毛を処理したのはこの時代が初めてと言えます。
脇毛のムダ毛処理が、デリケートゾーンの処理より遅かったのは意外ですよね。
この頃まで、男性、女性共に、女性の脇毛はセックスシンボルとして捉えられており、ムダ毛だという概念はありませんでした。
そんな日本文化に脇毛をムダ毛とする意識をもたらした最大の要因は、こちらもやはり服の洋装化です。
アメリカでノースリーブが大流行したのです。
これが日本にも伝わりブームとなりました。
ここから約10年ほどかけて、日本女性の脇毛処理は習慣化していきました。
洋装化によって、日本女性のムダ毛意識が一気に変わった時代だったことがよく分かります。
日本の脱毛の歴史が、長く顔のムダ毛ばかりだったのは、肌の露出が少なかった和装や日本文化が大きな要因だったと言えそうです。
洋装化と同時に、メイクにも革命的な変化が訪れました。
それは『色』です。
口紅に淡いシャーベットトーンが登場し、これを皮切りにカラーの種類が増え、メイクの幅が格段に広がったのです。
日本は今までの白、黒、赤の伝統的な3色メイクから完全に脱却しました。
きっかけは1967年にファッションモデルのツィギ―が来日したことでした。
女性のファッションアイコンは、映画女優からモデルへと移行します。
ツィギーは『ミニスカートの女王』とも呼ばれ、日本にミニスカートブームを起こしました。
このミニスカートの流行をきっかけに、足のムダ毛処理もより一般化します。
ピンク系の明るい肌に、上瞼に二重のラインを描き、大げさなつけまつげを付け、立体的な顔立ちにするツィギーを真似たメイクが流行しました。
まるでバービー人形のようですよね。
カミソリで眉を細くすることで、目の大きさがより誇張されます。
この細眉は、美しい眉の基本形として定着しました。
色白のツィギーメイクの他には、日本史上初めて、日焼け色の肌が大流行しました。
色が増えると、ハイトーンやシャドウを使ったメイクが可能になります。
日本のメイクに初めて『立体感』という概念をもたらしたことは、メイクの歴史に大きな意義を与えたと言えるでしょう。
1972年、昭和後期になると『ブレンド脱毛器』、今でいうニードル脱毛機がついに日本に輸入されます。
日本の経済成長真っ只中の時期でした。
脱毛は、エステティックサロンで施術技術を学んだ『電気脱毛技術者』によって行われました。
このブレンド脱毛機で、セレブな女性はこぞってワキ脱毛をしていました。
毛穴1本1本を処理するニードル脱毛は長時間痛みに耐えなければいけない上、当然高価なものです。
脱毛への関心は高まったものの、まだまだ一般人にはハードルが高く手が出しづらかった為、多くの女性はカミソリなどで行うセルフ脱毛が一般的でした。
しかし、人々の暮らしが豊かになり、美容に時間やお金をかける余裕が出てきたのもこの時代です。
『もっと美を追求したい』という需要が高まった為、日本各地でエステサロンがオープンしました。
それまではフェイシャルエステが主流でしたが、一人一人の肌質に合ったコスメを使った全身エステへと進化しました。
全身美容という概念が広まったのはこの頃です。
一方、国内の美容業界でも、アメリカに追いつけとばかりに着々と脱毛機の開発や製造が進められました。
西洋や欧米で開発された脱毛機は、金髪やメラニン色素が濃い肌に合わせて作られています。
そこから、日本人の肌質や毛質、用途によって、ブレンド脱毛と高周波脱毛の使い分けができる多機能型の脱毛機が生まれました。
次の脱毛機の進化はアメリカで起こります。
1980年、アメリカでレーザー脱毛器が発明されました。
レーザーの波長・照射時間を最適化することで、発毛組織だけにダメージを反応させることができる脱毛機です。
これにより、ついに世界で初めて『永久脱毛』が可能になりました。
しかし、日本にこのレーザー脱毛機がやってくるのはもう少し先のお話しです。