1603年、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を樹立します。
長かった戦乱の時を超え、やっと平和の時代が到来しました。
今回は江戸時代の脱毛についてみていきます。
江戸時代に入ると、への字型をした日本刀の技術が生かされた片刃の和カミソリが、毛の処理道具として一般化します。
この頃は大阪府の堺市や岐阜県の関市、兵庫県の三木市、新潟県の三条市などがカミソリをはじめとして包丁やノコギリ、ハサミや農機具といった刃物の生産地として栄えました。
毛抜きもこの刃物産業の発展にともない、現在使われているものとほぼ同型の物が生産され使われるようになります。
奈良時代以降の日本では、公家や武家等の上流階級の人々が行う『元服(げんぷく)』というしきたりがありました。
元服とは、成人であることを示す儀式で、今でいう成人式のようなものです。
男子は一定の年齢を迎えると、お歯黒をして、月代を作り、髪を上部で結い上げ、成人用の冠や帽子を着用します。
女子の元服は結婚を意味し、結婚が決まると、お歯黒をし、眉を剃り落とし、額の上の方に引眉を描き、厚化粧をして『裳(も)』という腰から下にまとう衣装を着ていました。
この通過儀礼を行うことで、一人前の大人になったことの証としていたんですね。
江戸時代になると、元服は庶民の間でも行われるようになります。
儀式も簡略化します。
男子は月代を剃ることで元服とし、庶民の女性は結婚するとお歯黒をつけ、成人を表していました。
当時は『黒は何物にも染まらない』ということから、お歯黒は女性の貞節を表すものでした。
つまり、お歯黒をすることで、他者に対して『私は夫を一生愛します!』という宣言をしていたのです。
現代でいうところの、結婚指輪のようなものだったのですね。
この風習は広く普及していき、1688年の元禄時代になると、お歯黒は江戸だけでなく全国各地に広がっていきました。
女性の元服にはもう一つ、大事なルールがありました。
『子供ができたらカミソリで眉を剃り落とす』というものです。
公家の『眉が無い者は美しく立派だ』という引眉の美意識が、江戸の一般大衆にも引き継がれていたようですね。
当時の人々は、女性の歯の黒さと眉の剃り跡に美しさを見出していたのでしょう。
元服のしきたりが庶民にも広まったことで、月代があるか無いかで、その人が元服前なのか、後なのかというものが見た目で分かるようになります。
女性もお歯黒や眉の有り無しで、未婚か既婚か、子持ちかどうかが見分けられるようになったのです。
どんな人なのか、一目でわかるのが、江戸時代の約束事でした。
江戸時代、髪型や化粧は、お洒落の他に、その人がどんな身分や年齢、ライフステージにいるのかを示すものでもあったのですね。
こうした時代背景の元、人々の身分や、性別、職業、年齢などによって、様々な場面でカミソリは使われるようになっていきました。
江戸時代に入ると、男性は基本的に毎朝髭を剃る習慣ができていました。
武家で身分の高い人は、毎朝家臣に額や髭を剃らせ、髪を結わせていたのですが、町家の人々は自分で月代を剃ることができなかったため、髪結床に頼んでいました。
貧しい民家などの場合は、髪結床のかわりに妻が髪結を行っていたそうです。
この頃、髪結床は職業として定着し、辻や橋のたもとで営業していました。
髪結床の普及にともなって、男性の髪形も多様化していきます。
戦国の気風が抜けきっていない前期は、鬢が細く男臭い髪型が支持され、若者の間では前髪を残した女性的な『若衆髷(わかしゅうまげ)』が流行しました。
中期になると、月代がどんどんと狭くなり、鬢を油で整えるようになります。
病的な雰囲気を持つ『疫病本多(えきびょうほんだ)』というスタイルが好まれました。
後期になると、月代はさらに狭くなり、時代劇でおなじみの『銀杏髷(いちょうまげ)』が登場します。
武家や町人の間で流行しました。
江戸中期ごろになると、男性に体毛の脱毛文化が芽生えます。
髭を含めた体毛全体が嫌われるようになり、よく銭湯で脱毛に励んだそうです。
湯屋には『毛切り石』というこぶし大の大きさの軽石が2個常備されていて、石で毛をすり合わせ削り取るようにして、すね毛、腋毛、陰毛、尻や肛門周辺の体毛を除毛していたそうです。
これは現代で言うVIOライン。
江戸時代、早くも男性のVIO脱毛が始まっていたとは驚きですよね。
これは、ふんどし姿が多かった男性が、生活の中で体毛が見えることがかっこ悪く、『恥』だとして、身だしなみとして行っていたそうです。
江戸時代の男性のお尻や足はツルツルでとってもきれいだったそう。
石をこすり合わせると、ゲコッとまるで蛙の鳴くような音がしたことから
『石榴口 蛙啼くなり 毛切石』という川柳も残っているほどです。
体以外には、眉毛も『癘風眉(カッタイマユ)』と呼ぶ、仏様より細い眉が流行して、カミソリや毛抜きで眉を整えていました。
江戸時代、粋な男は毛がないことが大切だったんですね。
上から下まで、毛の手入れを欠かさなかったようです。
同じころ、男性と同じく脱毛に励む人々がいました。
江戸で栄えた遊郭の女性たちです。
遊郭の女性は、この時代、アイドルやインフルエンサーのような、人々が憧れる存在でした。
流行の最先端をいく彼女たちの間でも、手足やデリケートゾーンを脱毛することが流行します。
デリケートゾーンは全て抜くのではなく、敢えて毛を少しだけ残していたそうです。
この頃描かれた風刺画では、遊女がVラインを整える様子が描かれていることから、全身脱毛がかなり流行したことが窺えます。
脱毛方法も様々にあったようです。
二枚貝を使って毛を抜いたり、毛切石で挟んでこすって切っていました。
切った後、そのままだと毛先がチクチクして痛いので、毛先を丸める為に線香で焼いていたそうです。
ムダ毛処理用のクリームもあったようで、木の実から抽出した油と、軽石を砕いて粉末状にしたものを混ぜた脱毛剤を作り、手や足に塗り込んで毛を摩擦でこすり切ったりもしていました。
さらに脱毛後のお手入れも念入りです。
鶯のフンやヘチマの水を、脱毛した箇所に塗り込んでいたそうです。
えっ!フン?!
と思いますが、鶯のフンは洗顔等などに使うと肌のキメが細かくなって、小じわが減り、美白効果があるとされて重宝されていたそうです。
実際に現代科学の研究によると、フンに含まれるリゾチームという成分が角質層を柔らかくしたり、皮脂の分解を促したり美白効果があることが分かりました。
ヘチマは現在も美容化粧水として多く使われていますが、紫外線から肌を守るブリオール酸や肌の調子を整えるサポニンが多く含まれています。
西洋の暗黒期の脱毛剤(猫の尿にお酢を入れたもの)とは違い、ちゃんと効能があるものを使っていたとは、さすが日本の文化ですよね。
しかし、小さな鶯から取れる糞は微々たるもので、小量しか取れなかったため、庶民には中々手に入らなかったそうです。
脱毛したり、高価な化粧品を使ったり、遊郭の女性たちが試行錯誤を重ねて美しくなろうとしていた様子が、目に浮かびます。
でも、手間もかかるし、線香で焼いたりするのはかなり痛そう。
肌への負担も大きかったはずですが、当時では最先端の方法として注目されていたそうです。
江戸時代、『美人』とされたのは、目が細く、顔は白く縦に長い『うりざね顔』でした。
さらに『引眉』の名残から目と眉毛の間は広い方が美人とされたようで、幅が狭い場合は下の方を剃り上げて整えていました。
前髪はアップにして、産毛や生え際、襟足を剃って、少しでも顔を長く見せようとしていたようです。
『色の白いは七難隠す』と言われた江戸時代、お肌の白さは美人の第一条件でした。
白く透き通るような顔色を作るために、白粉化粧がよく使われました。
この白粉のノリをよくするため、女性が顔や襟足の産毛を剃っている様子は、浮世絵にも頻繁に描かれています。
当時、顔や首を剃るのは、化粧前のケアとして日常化していたようです。
白粉で白い肌を作ったら、口や目元、目尻、爪には赤い紅を塗りました。
紅は紅花から取った赤色色素が使われたそうです。
江戸時代にすでにネイルが生まれていたとは、さすが江戸の女性はおしゃれですよね。
といっても濃くつけるのは良しとされておらず、ほんのり色づく程度だったそうです。
江戸時代は、黒、白、赤の3色がメイクの基本色でした。
女性の髪形もこの頃には300以上に増え、化粧の流派もいくつも存在していました。
もともとは自分で髪を結うことが女の嗜みとされてきましたが、どんどんと華やかになる日本髪は、この頃、ついに自分の手では負えないほど技巧的なスタイルになったそうです。
そういった背景から、女性の髪を結う『女髪結(おんなかみゆい)』も登場しました。
お店の様に特定の場所を作らず、相手の家に訪問して髪を結う形態だったようです。
彼女たちは当時の女性たちから引っ張りだこでした。
しかし、男の髪を結う『髪結床』での結い賃が32文だったのに対し、女髪結の結い賃は約6倍の200文もしたそうです。
財政難の江戸幕府は、華美な風潮を嫌っていたため、江戸の町の風紀を乱すとして度々禁令を出しました。
しかし、禁令下においても、流行の髪形にしたい女性は多く、女髪結は増えていったそうです。
髪にかける江戸女性の情熱には、幕府もかなわなかったようですね。
庶民の女性は、美容とおしゃれが大好きでした。
彼女たちの洗顔の基本は糠(ぬか)でした。
この糠を袋に入れて肌を磨いていたそうです。
野ばらなどから露を抽出した『花の露』と、白粉がはげにくいとされた『江戸の水』という化粧水が大流行しました。
寝る時には米のとぎ汁を顔に塗って夜パックをして、朝起きた時に洗い流してスキンケアしていたそうです。
女性も男性のように毎日お風呂には入っていたそうですが、洗髪は月に2、3回程度だったそうで、ふのりという海藻に小麦粉を混ぜたものをシャンプーの様に使って洗っていました。
遊郭の女性は体毛を脱毛していたましたが、庶民の女性は基本的には処理せず、自然のままにしていることが多かったそうです。
遊郭の女性の様に高くて希少なものは使えないけれど、洗顔やパックなど、日々のお肌のケアを頑張っているのは、現代の私たちも同じ。
時代は変わっても、きれいになりたいという気持ちはいつの世も一緒なんですね。
そうこうして、人々の暮らしが段々と安定した江戸時代、男性のおしゃれとして流行っていた髭文化が衰退します。
髭を禁止するきっかけとなったのは『かぶき者』と呼ばれる集団の横行でした。
かぶき者はもともと、身分の貧しい武家奉公人でした。
戦乱の時代では武士に雇われ、足軽などとして生活を維持してきたものの、平和な時代で稼ぎ場所をなくし、居場所を追いやられた人たちでした。
彼らは伊達男を気取って、大きな髭を蓄え、奇抜なファッションに身を包んだ姿をしていました。
これは、現代の伝統芸能の歌舞伎の礎にもなりました。
かぶき者たちの人並外れた風貌や行動は、反体制的な精神を象徴していたと言われています。
ですが、困ったことに、派手な風貌で練り歩くだけではなく、刀の切れ味を通行人で試すという辻斬りや、違法な賭博など、好き勝手な行動で長く問題を起こしました。
かぶき者の影響を受け、下郎や若衆の間では髭を生やすことが流行しました。
髭の薄い人は、ロウと松脂を加えて固めた作り髭をこよりにつけて耳にかけたり、中には墨で描いている人もいたそうです。
1684年、キリストの布教を危険視した日本は鎖国時代に入ります。
そういった折、見かねた幕府は乱れた風紀を正すためにかぶき者の特徴でもある髭を禁止しました。
この禁令は3度にわたって発令され、藩に仕える医師や隠居老人など一部の人以外は髭が完全に禁止され、厳しく取り締まられるようになります。
これをきっかけとして、男らしさの象徴だった髭は、『野蛮人の象徴』とする風潮が強まり、それ以降、髭は剃刀で剃り落とすのが一般的になりました。
『華のお江戸』は、古代ローマのような華やかな時代だったことがわかりますよね。
庶民が活気づき、様々な文化が花開いた時代でした。
次回は、明治時代に入ります。
日本の脱毛文化が動き始めた江戸時代が終わり、日本の脱毛はどう変化していったのでしょうか。