現在、日本では多種多様な美容法が溢れ、人々は自分の環境や好みに応じた方法を取捨選択しながら日々を過ごしています。
私たち美容業に携わる人口もどんどんと増加し、更なる市場拡大に向けて歩みだしている段階だといえるでしょう。
このような環境に行きつくまでには、一体いつから脱毛が始まったのでしょうか。
そしてどのような歴史があったのでしょうか。
今回は、日本の美容と脱毛の歴史に焦点を当ててみたいと思います。
日本における最古の脱毛は、石器時代の原人によって行われていました。
その祖先にあたるネアンデルタール人が、世界最古の脱毛を始めたことから、脱毛の歴史は始まっています。
およそ4万年前、ユーラシア大陸に生息していたネアンデルタール人。
彼らが脱毛をするのは、寄生虫を防ぐため、という必然に迫られて行ったものではないかと推測されています。
ネアンデルタール人はその後世界に広がりながら人口を増やし続け、先住民たちと混血しながら、約3万8千年前に日本列島に辿り着きます。
沖縄で発見された荻堂貝塚(沖縄県北中城村)では、縄文時代に貝を削って加工した道具がいくつも見つかっており、物を切る為に使われていたと考えられています。
同じように、日本各地でカミソリ状に加工された黒曜石という石で作られた石器がいくつも出土しています。
この黒曜石は火山活動で出来たガラス質の石で、割ると鋭く薄い破片になる為加工がしやすく、物を切るのに最適だったようです。
このような鋭い石器を使って、髭や体毛を削り取るように切って除毛していたようです。
彼らの除毛も、ネアンデルタール人と同じく、体毛が飲食の邪魔になっていたことや、寄生虫から身を守るために行われていたと推測されています。
はるか昔、ネアンデルタール人から始まった石器を使った脱毛は、日本の石器時代以降にも引きつがれ、縄文時代や弥生時代の人々も、衛生の為に脱毛していたことが窺えます。
衛生の為の脱毛が長く行われる中、歴史は進んで、知識や技術、文化が生まれ、日本は発展を遂げていきました。
衛生の脱毛から新たな進化を遂げたのには、世界で『鉄』が生まれたことと『宗教』が大きく関係しています。
紀元前1800年ごろにアナトリア(現在のトルコ)で冶金術(やきんじゅつ)が発明され、鉄が生成されるようになりました。
400年が過ぎ、紀元前1400年頃にはヒッタイト人の間で本格的に鉄器が使われるようになり、中国、エジプト、ギリシャに波及していきます。
鉄器の生産が盛んに行われるようになると、ギリシャでU字の鉸刀(ハサミ)が生まれます。
これが世界最古のハサミとされていて、主に羊の毛刈りに用いられていました。このハサミは全長1mに近い大型の物だったそうです。
その後このU字形のはさみは世界各地へ伝わり、軽量化や小型化され、髪の毛や、裁縫などに使われるようになっていきます。
現在の日本でも糸切バサミとして使われていて、基本的な作りは、当時とほぼ変わっていないそうです。
ハサミの歴史も、なかなか深いものがありますよね。
古墳時代に作られたと思われる埴輪から、顔に赤色の顔料が塗られていたことが発見されました。
このことから、この時代、顔に赤い着色を施す風習があったとみられています。
赤は太陽や火、血液を連想させます。
赤土を塗ることで、魔除けや、死者の再生を祈願し、神への畏敬の念を表していたと考えられており、これが日本における化粧の始まりと言われています。
さらに、大阪市の平野区喜連東(きれひがし)遺跡からは、古墳時代に使われていたとされる刀子(とうす)という小刀が発見されています。
こうしたハサミや小刀といった鉄器を用いた道具は、紀元前2~3世紀頃、主に朝鮮や中国から日本へと伝わってきました。
これらが脱毛の為に使われてはいたかは定かではありませんが、カッターナイフのように身近なものを切るために使われていたと考えられています。
こうして、鉄器をはじめとした道具が大陸から日本へもたらされたのが、古墳時代でした。
古墳時代を過ぎ、時は飛鳥時代を迎えます。
欽明天皇(第29代)治世の538年、日本に初めて鉄製のカミソリが伝わりました。
これが、日本で起こる文化的な脱毛の始まりと言われています。
この時代に、朝鮮半島の百済から大陸を渡って仏教が日本に広まりました。
カミソリは僧侶が髪を剃る為の法具として使われていたそうです。
鍛鉄製の刃物になっていて、長方形をした薄くて平らなものでした。
髪を剃るから『髪剃り』なんですね。
名前の由来もここからきているんです。
今でも、この呼び名が使われていることに、当時の仏教とカミソリの関係性の深さを感じます。
しかし、あくまでもカミソリは神聖な法具の一つで、実際に髪を剃る為には使われていませんでした。
竹を小刀の様に削った箏刀(タトウ)や、中国から伝わった鉸刀(はさみ)や刀子(トウス)が使われていたそうです。
6世紀後半になると、紅や白粉(おしろい)といった化粧品が大陸から入ってきます。
692年、中国からの渡来僧である僧観成(そうかんじょう)によって日本で初めて鉛白粉(なまりおしろい)が作られました。
女性であった持統天皇に献上され、大変喜ばれたそうです。
ただし、当時の白粉には水銀や鉛が含まれていたため、頻繁に使用すると中毒症状を引き起こす有害なものでした。
以降、公家の人々はこの白粉で肌を白く見せるようになります。
こうした中国大陸や朝鮮半島と交流をもったことで、『美しさ』の基準も大陸の影響が色濃く表れます。
当時流行したメイクは、眉間には花模様の花鈿(かでん)、唇の端にはえくぼのような靨鈿(ようでん)を描き、白粉を塗った顔に頬紅や口紅をさし、眉は弓なりの太い眉がスタンダードでした。
中国の唐の宮中メイクがお手本となったとされています。
ここから、日本では『白い肌が美しい』という価値観が定着したと考えられています。
美白の肌は、現代の日本の女性でも、美しさの第一条件ですよね。
肌の白さへの価値は1,400年たった今も、変わっていません。
もう一つ、仏教がカミソリとともに今の日本にもたらした文化があります。
それは、なんと「お風呂」です。
お風呂の文化で思い出すのは、やはり古代ギリシャやローマの公衆浴場ですよね。
美しさを求めて、日々脱毛に勤しんでいた古代ギリシャ人とローマ人。
しかし、日本にこの文化をもたらしたのは、ヨーロッパではなく意外にも『仏教』だったんです。
仏教において、お風呂に入ることは『病を退けて福を招来するもの』とされていたそうで、僧侶の入浴が推奨されていました。
そのため、沐浴の施設はお寺と一緒に建立されていたのです。
ただ、『お風呂』と言っても、今のようなお湯につかるわけではなく、薬草を入れたお湯を沸かして、その蒸気を堂内に満たすという『蒸し風呂形式』のお風呂でした。
今でいうサウナですね。
この蒸し風呂に入り、肌を蒸した後、垢をこすり落としてかけ湯をして洗っていたそうです。
この時代、お風呂は贅沢なものだったので、今の様に毎日入るわけではなく、僧侶が修行の一環としてたまに入る程度でした。
武士や一般庶民にはもちろんそういった習慣はまだなく、水をかぶる『行水』をしたり、水を付けてただ汚れを落として清潔を保っていたそうです。
仏教は、聖徳太子の活躍の煽りを受けて日本各地に広がっていき、それとともにカミソリや風呂文化も浸透していきました。
かつての1万円にもその顔が使われていた聖徳太子。
あの有名な聖徳太子が、脱毛の普及に貢献した第一人者だったとは驚きですよね。
中国や朝鮮からの大陸の文化が日本にもたらした影響は大きいといえるでしょう。
鉄が日本に到来することで脱毛文化の下地ができ、仏教によってカミソリが広まりました。
しかし、飛鳥時代においての脱毛は、あくまで仏教の修行の一つでしかなかったようですね。
この後、脱毛はどんな発展をみせていくのでしょうか。
次回、平安時代の脱毛の歴史を見ていきます。