400年間続いた平安時代が終わり、しだいに武力を備えた地方の豪族、いわゆる武士が台頭し始めます。
1185年、源頼朝が鎌倉に幕府を置き、鎌倉時代が始まりました。
本格的な武家政権による統治の始まりです。
政治の中心が朝廷貴族から武士に移ったことで、文化の担い手も貴族から武士へと変わり、次第に武家の文化が芽生えていった時代でした。
今回は鎌倉時代以降の脱毛の歴史を見ていきます。
鎌倉時代になると、武家の男性のヘアスタイルである、時代劇でもお馴染みの『月代(さかやき)』が登場します。
前頭部から頭頂部にかけて頭髪を剃り上げたスタイルです。
もともとは、貴族が冠や烏帽子をかぶる時に頭が蒸れるので、額の髪を半月の形に剃ったことが始まりとも言われています。
この時代、頭頂の髪をなくしたのは、兜を被った時に頭が蒸れるのを防ぐためでした。
確かに鉄でできた兜は重い上、通気性も悪そうです。
剃り上げた、といっても、当初は剃っていたのではなく、なんと抜いていたというから驚きです。
木鑷(げっしき)と呼ばれる木製のピンセットのような毛抜きを使い、1本1本髪の毛を挟んで抜いていたそうです。
想像しただけで痛そうですよね・・・。抜くのは手間もかかり、毛を抜いた後は血だらけになってしまうこともあったそう。
ただ、毎回やっていたわけではなく、この髪型にするのは戦時だけの臨時的なものだったそうです。
また、寺院や幕府が積極的に施浴を庶民に施したため、鎌倉時代ごろから髪や体の身だしなみが習慣化してきました。
3日に1回は髪をとかし、5日に1回は入浴していたそうです。
米ぬかや豆などを原料としたものを使って体の汚れを落とし、花などの成分が入った化粧水で肌を整えていました。
こうして、白粉を塗った肌の白さよりも、透明感がある白い素肌がより美しいとされ、白粉メイクも少しずつ薄くなっていったようです。
1336年に室町幕府が誕生します。勇ましい武士の時代へ変わり始めた時代です。
男性は、余った髪を根本からまとめて、棒状に紐でまとめ上げたり、束ねて折り曲げた髪を頭にのせる折り髷が多くなりました。
この時代も、貴族や武家の上流階級の女性の間では、黒く長い髪が美しさのステータスでした。
しかし、室町時代後期に入ると、一般の女性の装いに変化が訪れます。
武士が台頭するにつれて、一般の女性にも活動的な装いが求められるようになっていました。
家事や労働の邪魔にならないよう、だんだんと長い髪を束ねるようになったのです。
髪を後ろの低い位置で1本にまとめた『下げ髪』や、髪を1本に結んだあと先を輪に結んだ『玉結び』という髪型が日常的になりました。
とても簡単にできることから、上流階級から一般庶民にまで広く結われた髪型でした。
同じ頃、世の中が落ち着くにつれて戦乱で乱れた秩序を回復しようと、武家では礼儀作法や武家制度が整備され、その中の一つとして、化粧の基本が定められました。
眉の形や身分、職業、年齢などによって、メイクに細かな決まりができたのです。
上流階級で定められたメイクは、男性・女性共に、白粉、引眉、お歯黒です。
ここから、正式な儀式ではこのメイクが定例化したのです。
これが、以降続く日本化粧の基礎となったと言われています。
それにより、上流階級の女性だけの特権であったメイクが、一般庶民にも広がるようになりました。
庶民のメイクは、公家の女性が好んだ引眉ではなく、自分の眉を生かし、眉毛を抜かずに整え、白粉も薄くつける程度のものでした。
時は16世紀半ばの戦国時代に入ります。
ヨーロッパ人が日本各地を訪れ、様々な文化を持ち込むようになりました。
種子島もその一つで、1543年に台風の直撃で南蛮船が漂着し、乗船していたポルトガル人から鉄砲を譲り受けた話は有名です。
戦国時代を代表する織田信長は、鉄砲だけでなく、一般人として初めてカミソリを使った人物と言われています。
武士独特のヘアースタイルである月代(さかやき)を作るのに折り畳み式の西洋レザーを使ったそうです。
いち早く新しい文化を取り入れることで知られる織田信長は、こんなところでも名を残していたんですね。
初めは臨時的に行っていた武士の月代スタイルでしたが、世は戦国時代。
次第に月代は武士のヘアスタイルとして常態化していきましたが、毎度毛を抜くことで頭皮に炎症を起こし、兜を被るのに支障が出たそうです。
織田信長がカミソリを使ったことをきっかけに、武士階級も頭髪はカミソリで剃るのが主流となりました。
ポルトガルから伝わったものはこれだけではありません。
現代の鋏の原型である『洋ばさみ』も、この時ポルトガルから持ち込まれており、今では「種子鋏(たねばさみ)」として鹿児島の伝統工芸品として受け継がれています。
戦国時代になると、公家の人々を真似て武将もお歯黒をして権威を表しました。この風習は江戸時代ごろまで続いたそうです。
さらに、この頃から髭が男らしさの象徴として賛美されるようになります。
当時、髭のないものは『女面』と馬鹿にされたそうで、付け髭をつけるのも当たり前だったそうです。
付け髭で有名なのは豊臣秀吉で、文禄3年に付け髭と作り眉を付けてお花見に行ったことが記録に残っています。
確かに・・・剛毛とは言えない毛質に見えます。
天下の豊臣秀吉も毛が少ないことを気にしていたんでしょうか。
髭は庶民の中でもファッションとして流行したほどでした。
安土桃山時代に入り、女性のヘアスタイルが大きな転換期を迎えます。
平安時代から長く続いた髪を長く伸ばすヘアスタイルが廃れ、束ねた髪を輪にして作る『唐輪髷(からわまげ)』と呼ばれるヘアスタイルが流行したのです。
これは当時の先進国であった明の女性の髷を真似た遊女が始めたことが流行のきっかけとなったそうです。
前髪を真ん中でわけた後、髪を頭上でまとめ上げ、2つから4つの輪をつくってから、根元に余った髪を巻き付けて高く結い上げるスタイルです。
日本女性の髪形で初めてのアップスタイルですね。
それまで、髪をまとめることはあっても、上部でまとめることはなかった為、当時はだいぶ革新的なものだったことでしょう。
これが日本髪の原型と言われています。
これ以降女性の髪は4パーツごとにわけて考えられるようになります。
4パーツとは、前髪、左右の鬢(びん)頭頂部付近の髷(まげ)、襟足の髱(たぼ)の4つです。
ひな人形のお雛様がしているヘアスタイルといえば、イメージがつくでしょうか。
ただ長い髪をおろしていた平安時代と比べると、動きやすく、立体的なヘアスタイルになったことが分かります。
安土桃山時代の終わりになると銭湯が出現します。
その後日本各地でいくつも作られ、一般大衆の人々は銭湯を楽しんだそうです。
この頃の風呂も蒸し風呂が主流で、『戸棚風呂』という入浴方法が一般的でした。
お風呂の形が戸棚のようだったことから、この名前がついたそうです。
当初のお湯の深さは30㎝ほどで蒸気を逃がさないように周りを板で囲ってあり、風呂に入る時は、囲いにある引戸を開閉して出入りしました。
中は真っ暗で、一度に大勢は入れませんでした。
腰までお湯につかり、体が温まると、洗い場で垢をこすり落として洗い流します。
今でいう半身浴で、ほぼ毎日入浴する習慣になっていたそうです。
戸棚風呂には、大人数が入れず、引戸を開けたままにすると湯気が逃げてしまうという難点がありました。
それを解消するために誕生したのが『柘榴口(ざくろぐち)』です。
今までの引戸をやめ、高さ1mほどの小さな入り口を設けました。
この入口が「柘榴口」とよばれるものです。
柘榴口から風呂場に入ると3畳ほどの湯船があり、これにより一度に大人数の入浴が可能となりました。
今では考えられませんが、この頃、湯屋は全て混浴でした。
男女共に裸を見られるということに対し抵抗がなかったようです。
とは言っても、実際湯屋に入ると、柘榴口から入る淡い光のみだったので中は薄暗く、蒸気が立ち込めている為何も見えない状態だったようなので、そこまで気にしていなかったのかもしれません。
その後、肩まで浸かる『据え風呂』が登場します。
井戸水を薪で燃やして湯を沸かし、風呂を直接温めるタイプで、一般庶民の家庭にも広まりました。
現代でも知られる『五右衛門風呂』はこの時代に生まれたものです。
こうして、お風呂につかる生活様式が日本でも根付きました。
鎌倉時代以降、身だしなみが習慣化した延長で、次第に庶民にも毛抜きの風習が広まっていきました。
それは、人の身なりを整える職業が誕生したことが、理由の一つだと考えられます。
すでに、室町時代中期頃の京都では、櫛やはさみ、毛抜きを使い、男性の髪を結い、髭や月代を剃る職業の『髪結床(かみゆいどこ)』が町中に存在していました。
もともとは、1銭程度で髪を結い、月代を剃っていたため、『一銭剃り』と呼ばれていました。
髪結は町や村単位で抱えられ『床』と呼ばれる仮の店で商売をしていたため床屋とも呼ばれました。
髪結床は、髪を切るだけでなく、客同士の重要なコミュニティースペースとしても機能していたようです。
これが日本での理容業の始まりだと言われています。
こうして、男性の頭髪の除毛にはカミソリやハサミがなくてはならないものになっていきました。
日本で顔の美容脱毛が始まったのは794年の平安時代。
さらに頭髪の脱毛が一般大衆へ広がるまで500年あまりかかっています。
世界の脱毛は紀元前3000年前から始まっているのと比べると、日本の美容脱毛はだいぶ遅かったようですね。
次はいよいよ、華の江戸時代に入ります。
日本の美容と脱毛は、江戸の町でどのように発展していったのでしょうか。