飛鳥時代には、仏教の教えの中においての脱毛しか、まだ日本には生まれていませんでした。
それから250年あまり過ぎ、平安時代が訪れます。
日本の脱毛はどのように発展していったのでしょうか。
菅原道真の進言によって遣唐使が廃止されると、日本は鎖国のような状態になりました。
ここで、日本独自の美容としての『脱毛』の文化が花開きます。
当時の貴族女性は『垂髪(すいはつ)』という髪型がスタンダードでした。
黒髪を自分の身長ほどまで伸ばし、まっすぐおろすというスタイルです。
貴族の女性は赤の他人の男性には顔を見せないのが当たり前で、会うときでさえ、御簾(みす)越しで、大きな扇子で顔を隠すのが女性の嗜みでした。
そういった風潮の中、美しさのシンボルとなったのが『髪の美しさ』なのです。
当時の美人の条件は長くてボリュームのある黒髪でした。
それも十二単の裾よりも長く、扇のように広がったロングヘア―が理想とされました。
長さに自信がない女性は『かもじ』という着け毛を使って、長さやボリュームを足していたそうです。
日々のお手入れは、侍女によるブラッシングです。
解き櫛で髪のほつれをほどき、米のとぎ汁に浸した目の細かな梳き櫛で髪をとかして、ほこりなどの汚れをとっていました。
さらに『澤(たく)』という香油を綿でひたして髪につけることで、ツヤ髪を作っていたそうです。
仕上げに、調合した香をたいて髪に香りをつけてました。
当時は洗髪自体が年に数えるほどだったので、髪の臭いをごまかすのも、理由のひとつと考えられています。
この自慢のツヤツヤの黒髪を美しく見せる為に、顔の脱毛が始まります。
当時は、面が滑らかなハマグリのような二枚貝をピンセットのように使って毛を抜いていたようです。
平安時代独特の、額の上の方に描かれた小さく丸い形の眉毛は『引眉』とよばれ、美しさの象徴でした。
毛抜きで額や眉毛を全て抜き、額の上の方に墨と筆で新たに眉を書き足していました。
世界各国でも脱毛は始まっていましたが、脱毛部位が『顔』からだったのは、日本特有だと言えます。
そして、この『顔にはムダ毛が無いことが美しい』という概念は、この後長く日本の美意識として伝わっていきます。
このように公家の女性はヘアスタイルにこだわった生活を送っていましたが、男性も負けず劣らず独特なヘアスタイルでした。
当時の指導者階級では、冠帽を付けるのが普通のこと。
ですから、髪型はそれに都合のいい形に変化します。
『冠下(かんむりした)』と呼ばれるヘアスタイルで、束ねた髪を頭上で折り曲げて先端を頭の上に持ってきて、紫の紐で結ぶというものです。
なるほど、冠が袋の様になって、髪を中に入れ込むようにできていたんですね。
一方の庶民はというと、男性女性共に、髪の毛を簡単にまとめて先をたらす『たぶさ髪』というスタイルが多かったそうです。
いわゆるシンプルなポニーテールですね。
貴族と違い、かなりラフなものでした。
もうひとつ、平安時代から始まった日本の美を象徴するメイクが『お歯黒』です。
お歯黒は現代ではもう習慣がなくなってしまいましたが、明治時代ごろまで行われていた日本古来のお化粧です。
文字通り、歯を黒く染める風習で、奈良時代に北方民族によって朝鮮半島から伝えられたというのが有力な説だとされています。
昔の浮世絵などを見ると、口の中が真っ黒に描かれているので、違和感を抱く人も多いと思いますが、当時はこれこそが美しさのポイントだったそうで、歯が黒く輝いているほど良いとされていたそうです。
男女共に17~18歳で歯を黒く染め、成人であることを表していました。
渋柿のタンニンと『鉄漿(かねみず)』と呼ぶ鉄の溶液を、お歯黒筆や小枝の先を柔らかく房状にしたものを使って交互に塗布して黒く染めていったそうです。
一度染めただけでは黒くならず、何度も重ねて染めなければいけませんでした。
はじめのうちは毎朝歯磨きと塗布を繰り返す必要があったそうです。
手間や時間はかかりますが、お歯黒には虫歯を予防する効果もあったため、このお歯黒によって口内の衛生環境が非常に良かったという、思わぬメリットもあったそうです。
その後、お歯黒は時代とともに染める年齢が低くなり、室町時代では13~14歳程度まで下がりました。
さらに戦国時代になると武将の娘は早く政略結婚させるために8歳で染めていたという記録が残っています。
歯の黒さを引き立たせるため、鉛白粉や、米粉で作った白粉(おしろい)で肌を白くしていました。
上流階級の人は外に出て働く必要が無く、常に屋内にいたことから、肌の白さは高い身分の象徴とされていました。
寝殿作りの建物は外光が入りにくく、御簾越しでの面会が多かったことから、肌の白さは女性をより一層引き立ててくれたのでしょう。
白い肌、長い髪と、額の上にある小さな眉、おちょぼ口で歯は黒く、小さく細い目。
現代に求められる美しさとはかなりかけ離れているように感じますよね。
特に現代ではアイメイクが当たり前ですが、当時『目』は存在を感じさせない方が魅力的だとされていたそうです。
大きな目は、みっともないとされていました。
なぜこんなにまで避けられたのでしょうか。
この時代は、感情をむやみに表に出さず、上品にふるまうことが良しとされたそうです。
眉や目、口は感情がよく現れる部分でもありますよね。
顔の表情があまり動かないことを追求した結果、こういった独自のメイクに行きついたのでしょう。
紀元25年から220年に起こった中国の古代王朝である後漢で編まれた辞書に、白髪を抜く道具として『鑷(ケヌキ)』が登場しました。
その後、平安時代に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という辞書にも『鑷子(ケヌキ)』の項目があることから、平安時代に中国から毛抜きが伝わったことが分かります。
当時の毛抜きは木製で作られたピンセットのようなものだったそうですが、その精度は良いとは言えず、抜きづらかったようです。
この頃書かれた文献からも当時の美容法をうかがうことができます。
源氏物語では、のちに光源氏の妻となる紫の君が、10歳前後で眉を整えたことが記されていました。
しかし、眉を整える行為は貴族の女性が行う特別なもので、まだまだ庶民には知られてはいなかったようです。
枕草子には、『ありがたきもの毛のよく抜くるしろがねの毛抜き』という記述もあり、平安時代の中期以降では、すでに金属製の毛抜きも使われていたことが分かります。
こうして、毛抜きによる脱毛は、上流階級の女性の嗜みとして長く行われました。
この頃、飛鳥時代から入っていた風呂文化が上流階級の人々に受け、枕草子では、寺院にあった蒸し風呂浴堂を公家の屋敷内に取り込んでいる様子が描かれました。
同じく、寺院では庶民に浴堂への入浴を施していたそうです。
当初は庶民にとって入浴はまだまだ贅沢なもので、今でいう温泉旅行のような一種の娯楽でした。
しかし、日本は火山が多く、温泉が湧きやすい土地環境だったこともあり、各地に浴堂が作られ、次第に庶民にも風呂に入る習慣が始まったとされています。
この頃から、『風呂』の宗教的な意味が薄れ、衛生面や遊興面の側面が強くなっていったようですね。
こうして、華やかな平安時代に、顔の美しさの基準が確立して、それまで僧侶だけだった脱毛が、公家や特権階級の人々にも行われるようになりました。
次回は鎌倉時代以降の歴史を見ていきます。